ぴえんのまなざし
毎年、新しい日本語が生まれる。
たとえば、もはやちょっと懐かしさも覚える単語
「ぴえん」
『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』の著者、
佐々木チワワさんによると
「今日ぴえんに会った」(意味:今日メンヘラに会った)、
「好きピに会えなくて、まじぴえんだった」(意味:好きな人に会えなくて悲しかった)というように、使われる文脈によって意味が変化する
とのこと。
このように、由来が擬音語なのか擬態語なのかすらわからない新語もあれば
もともとあった言葉が変化した新語もある。
たとえば「まなざし」という名詞を動詞化した
「まなざす」
そしてこれが受け身の表現になった
「まなざされる」
この2つでは、どちらかというと「まなざされる」のほうが使われている。
最初に聴いた時は「意味はわかるが、なんとなく……どうなんだろう」
「見られる……ではニュアンスが伝わらないし、
眺められるというのも伝わらないか」など、
いろいろ思うところがあった。
「見える化」をはじめて聴いた時
「いや”可視化”でいいだろう、耳ではたしかにわかりづらいけど」
と思ったのと同じような感触だった。
前掲書の『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』の6章では
『現在の日本は誰もが「まなざしの地獄」に晒されている』
という印象的な一文が出てくる。これについて佐々木さんは
・「いいね!」や「フォロワー数」という数字に自分自身の価値を委ねがちであり、
数字が減ると自分の価値が減ったように感じる。
他者からの「まなざし」を受けるようになった近代都市の価値観がSNSによって
全国的に伝播した。
・今や、どこに住んでいてもネットさえつながっていれば、都市のまなざしの対象下
・「個人」がSNSによって視覚的に可視化され、数字やコメント内容で評価、
序列化することが可能になった
・ 意見や価値観、外見、その外見を使って表現するものすべてが消費対象であり、
「推されるアイデンティティを確立できているか」という
他者からのまなざしを受けての思考に支配されている。
と分析している。
「まなざしの地獄」なくして「まなざされる」は生まれなかった日本語ではないか。
「誰に見られることもなく鼻をほじって
明日の事を考えたり、考えなかったりしていたあの頃」は
強烈に意識しないと取り戻せない。
このニュースレターですら「まなざし」
「まなざされること」を意識して書いている。
まなざされることを意識するあまり、
思ってもいない行動をしたり発言をしたりする。
それで、大きな評価・評判を得てしまうと、
成功報酬から逃れられなくなる。
最初は「思ってもいない行動・発言」だったが
「その行動・発言をする自分」に飲み込まれていく。
これは何も若者に限った問題ではない。
「まなざされない人生を過ごしている人」には
SNSで出会えない。
「まなざしの地獄」から抜け出す一歩目はきっと
「まなざされない人生を過ごしている人探し」。
案外、その一歩を踏み出すだけで、
実質、地獄から抜け出したようなものなのかもしれない。
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